福田真知「Far through layers」展に寄せて

吉村 真 YOSHIMURA Sin

福田真知「Far through layers」展に寄せて

ある対象(静物や歩く人物)を一時間ほどかけて異なる視点から数百回撮影し、フォトショップで99パーセントまで透明化したうえで、それらの画像レイヤーを重ね、プリントした《SURFACE/フンイキ》。うしろ姿の女性を固定視点から10分ほどのあいだに数百回撮影し、同じように透明化するが、今度はそれらの画像レイヤーが毎秒一枚ずつ重なり、すべて重なると毎秒一枚ずつ剥がれてゆくさまを動画にした《jewel》。今回の個展で並べられる福田真知による二つの作品シリーズは、いずれも光沢紙と液晶ディスプレイという物質感の乏しいメディアが用いられているが、ひと度その極薄の表層を覗きこめば、そこには水底のような深さをたたえた空間が圧縮され、重い水のように視線にまとわりつく感触が宿っていることに気づくだろう。というのも、その極薄の表層はアーティスト本人の言葉を借りれば、「時間の湖 time-lake」の水面であるからだ。

時間という不可視のものについて語るとき、ひとは湖よりむしろ川の流れのイメージをよく持ち出す。過去から未来へ休みなくつづいてゆく時間と、上流から下流へとめどなく流れ去る川。両者のアナロジーは東洋では諸行無常、西洋では万物流転の思想を育み、ひとびとに現在の儚さや変化の理を思い起こさせ、日常の生活を律してきたのであった。だが、ともするとわれわれは、時間と川の本質をあまりにも単純に不可逆的で不断の進行性へと還元してしまうことがある。実際の川はけっして一定の速さで流れているのでないし、そこここに水の淀みが生じている。同じように時間もまた、人間の感覚や記憶に応じてどこかで遅延したり、何ものかの周りに滞留するものだろう。もはや特定の方向に流れ去ることなく、深々と溜り、揺らぎ続ける時間、それは湖に喩えられる。

福田真知は、2014年に自ら企画する映像系作家のグループ展タイトルとして「時間の湖 time-lake」という言葉を創案した。おそらくこの言葉は、《SURFACE/フンイキ》と《jewel》において写真と映像という二種のメディアにレイヤー編集を加える経験から生まれてきたのだろう。福田は複数の仕事が差異化・蓄積・相互浸透してゆく経験から、自らの思考に潜在していたイメージ/概念を引き上げ、洗い出したのである。

すでに2006年頃より、福田は写真作品《river-river》シリーズにおいて時間の表現を試みていた。この先駆的なシリーズは、作家の郷里岐阜の木曽川をモティーフに、数年間にわたって定点不定期に撮影した幾枚もの写真を不揃いな細さの縦帯に切り分け、ばらばらの順番で横に繋ぎ合せたものである。こうした制作プロセスは、諸瞬間が記憶のなかで差異化され蓄積し錯綜するプロセスを可視化するものと見なせる。しかしながら連続的時間を字義通りに水平に流れる川として、一枚一枚の写真を瞬間の垂直な切断面として捉え、制作プロセス(=記憶のプロセス)をやや図式的に表した本作には、まだ湖面に見られるような深さと揺らぎが感じられない。

湖としての時間は《SURFACE/フンイキ》と《jewel》とともに現れる。両シリーズは《river-river》の継続的な制作と交互しつつ、2010年頃より同時並行的に手掛けられ始めた。時間のメタファーである川が直接モティーフになっていた前作と違い、人や物が対象に選ばれた両シリーズでは、それだけにいっそう制作のプロセスが重要な役割をおびるが、そのプロセスこそが冒頭で述べた写真のレイヤー編集である。福田はフォトショップを用いて透明なレイヤーに変換した写真を単一の面に積層することで、記憶のプロセスを一段進めて表現する。つまり差異化・蓄積した諸瞬間を、ばらばらなまま錯綜させるのではなく相互に浸透させるのである。物質的な厚みをもたないレイヤーの重なりは、持続的な奥行きといくつもの瞬間のあいだのズレを内包し、作品表面はどこまでも透き通っているようでいて濁っているような、細波に似たノイズに満ちた垂直な時間の湖面と化す。このレイヤー/湖面の向こうには何が見えるだろうか。

 《SURFACE/フンイキ》の場合、プリントされたその画面は視点を移しながら一個の対象を撮った結果であるが、そこに見えるのはカメラをもつ作家の身体の運動性でも対象の名指し得る外観でもない。われわれは、作家の移ろう視線の中心に位置していた対象の持続的な気配を認めるのみで、定まった形で捉えられなかったその存在の名残りを覚束ない記憶のなかに手探りするように誘われる。

 一方《jewel》の場合、10分程度の再生時間のなかでじょじょに色濃くなってゆく映像の対象が女性の後ろ姿であることは比較的すぐに判別できる。しかし、モデルは基本的に動かずに固定視点から撮影されているにもかかわらず、その姿はすべての写真レイヤーが重なり、映像が決してもっとも濃くなった瞬間でさえ明瞭に現前しない。というのも作家がシャッターを切ったのは、モデルの髪が風に揺れ陽射しに輝いたりした瞬間であり、いわば感覚的な至福のうちに事物の名が忘却される瞬間であるからだ。このような至福をもたらす風光は映像のなかでモデルその人のアウラとなり、彼女がはっきりと姿を見せることを期待させる。だが、どうしても思い出せない誰かのように彼女は薄れゆく記憶の向こうに消えてしまう。

  時間の湖の水面を見ること、写真映像のレイヤーの向こうに存在するものの持続を探り、何かを見せて何かを隠す記憶の作用に触れること・・・・・・ 2013年から今年にかけて制作された《SURFACE/フンイキ》と《jewel》に囲まれた空間で、福田真知がこの数年間に溜めつづけた時間の深みと揺らぎに浸ってほしい。

吉村真(よしむらしん、早稲田大学文学研究科博士課程)



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